KAI FACT magazine
HISTORY OF KAI vol.4
FACT  No.05


貝印の名に刻まれた
ものづくりへの思い。

 ポケットナイフや替刃製造で貝印の基礎を築きあげた初代。その思いを受け継ぎ、さらに事業を拡大したのが「日本のカミソリ王」と呼ばれた二代目遠藤斉治朗である。カミソリ王の所以も、そして現在の貝印の社名のルーツも、1951年、二代目が作った使い捨ての「長柄軽便カミソリ」にあるのだが、その前に、まずは二代目がカミソリ製造に携わるまでの道のりを遡ろう。

 二代目・斉治朗を襲名した兼松繁は1925年生まれ。初代の甥にあたり、初代の妻ひろの弟でポケットナイフ工場を任されていた兼松金一の次男。幼少期より遠藤家に出入りして可愛がられていた繁は、幼いながらに将来は遠藤家の子供になると感じていたという。そして実際、子のいなかった遠藤家の養子となる。 14歳で繁はフェザーの共同経営者・小阪利雄が大阪で営む刃物問屋、小阪商店に修行に出た。3年間、住み込みの見習い奉公として、死に物狂いで働いたそうだ。その後、1946年に独立し、初代が製造するフェザーの替刃を主力商品に、自分の足で名古屋に販路を開拓することから始めて、「フェザー商会」を設立。名古屋に事務所を構えた。当時の社員はたったの1名。事務所といっても床がきしむような10畳をつい立てで仕切った半分だったが、そこから小さな自社社屋を建て、さらに東京へも進出。年々販路を広げて、1954年頃には社員数39人の会社へと成長させた。

 その頃まで、フェザーの替刃を主力商品としていた繁が「自社製品がなければ」と考えて着手したのが、長柄軽便カミソリの製造だった。それ自体はすでに町の銭湯で出回っていたが、切れ味や評判があまり良くなかったところに目をつけたのだ。早速、初代・斉治朗の賛同も得て、安全カミソリと同じ製法で両刃を作り、それを中央で切断して片刃に分けて2つの商品にした。
 試作品が完成したのは1951年。誰もが頷く良質な品を作り、それがブランドとして認知されれば必ずヒットする。初代が立ち上げたフェザーブランドで得たその考えを元に誕生したのが、「貝印」の名前とマークだった。ところで、なぜ「貝」なのか? そこには、刃物の原点が貝であること、貝の姿形が美しいこと、扇のように末広がりであることなど、いくつかの理由があるが、そのひとつには英語のSHELLが「繁(しげる)」の音にも通じるというユニークな理由も。こうして貝印の名前とマークの入った軽便カミソリは、ブランドとしての品質の良さが世に広まり、1953年には出荷が追いつかないほどになった。

 本当に良いものを届けなければ、ブランドを掲げて生き残ることは難しい。初代から二代目、当時から今へ、「貝印製」であり続けるための信念は受け継がれている。


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